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サッカーの「価値」と「効果」
 2023年8月18日(金)付朝日新聞「時時刻刻」―Jリーグ 地域と歩んだ30年―(添付資料参照)を読んだ時の違和感は何だったんだろうと考えてみた。記事の趣旨を私は次のように理解した。

 『企業チームを土台としてスタートしたJリーグには、地域に必要とされなければ存続できないという危機感がある。だから社会貢献活動をしっかりやって“スポーツの価値”を示し続けていく必要がある。』

 「地域密着の社会貢献活動がJリーグの価値を生み出す」ということなのか。
 記事中に『欧州では、スポーツを楽しむ地域の人々が集まってクラブができた。もとからクラブは住民のものだ』とある。それが自然な流れだろうと思う。それが日本では先にクラブがスタートし、存続のために地域貢献が必要だという。まったく逆の流れである。
 
 以下は、私の偏見である。

 スポーツは語源的に「日常生活から離れた」ものであり、そもそも「遊び」であると『ホモルーデンス』の中でホイジンガは書いている。「遊び」に由来するスポーツの価値は、“楽しい”という一点にしか存在しないと私は確信している。仲間とともに思いどおりに扱えないボールを追いかけ、それとは対照的に超人的としか思えないプロ選手たちのハーモニーが生み出す一瞬のプレーにたくさんの観衆が驚嘆の叫びをあげて大興奮する。それこそが、そしてそれだけがスポーツの、サッカーの価値だと私は思う。

 Jリーグが地域のために社会生活に必要なまっとうな、それをすることに対して誰も非難のしようのない社会貢献活動を行うことは素晴らしいことである。しかし、それはサッカーの本質的な価値とはまったく別次元の話である。社会貢献活動は、地域に支えられていることに対するいわば“恩返し”としておこなった方が良いのではないか。社会貢献活動によって地域の支持を得ようとするのは本末転倒のような気がする。
サッカーの価値はサッカーそのものの中にあり、それ以外のところにサッカーの価値を求めるのは、サッカーの価値を貶めることにもなりかねないと私は危惧する。

 企業チームを母体としてスタートしたJクラブが、地域に密着していくために社会貢献活動をすることは存続のための重要な“手段”であるかもしれないが、決して“本質”ではない。手段なら他にも見つかるかもしれない。しかし、サッカーの本質はサッカーの中にだけ存在する。サッカーの“価値”は、サッカーの中でこそ高めていかなければならない。そこを見誤ってはいけない。

 “手段”や“効果”を、“本質”や“目的”とすっと入れ替えてしまう言説はよく見かける。「サッカーを通じて青少年の健全育成を」。スポーツには人格陶冶等教育に資する“効果”はある。しかし、スポーツをする“目的”はそれを楽しむことにある。「健康維持のために何歳になってもスポーツをしましょう」。やりすぎなければスポーツは健康増進の“手段”になりうる。しかし、それはスポーツを続ける“目的”ではない。“目的”はスポーツを楽しむことである。
 
 皆さん、これからもサッカーを遊びとして一緒に楽しんでいきましょう!


2023/08/20 10:39
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